花のあと

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藤沢周平著

上京した父が丁度読み終わったと置いて帰った。
久しぶりに見るこの本、読んだのはかなり前のことになるが、記憶していたのはこの短編集の中に3編忘れられない作品があるからだ。
「寒い灯」「旅の誘い」「花のあと」の。
しかし私にとって極め付きの1篇は「旅の誘い」だ。
藤沢さんの短編集で最初に読んだのは「暗殺の年輪」という作品で、その中の「溟い海」で藤沢さんの作品に「填まった!」ということは以前にも書いたかもしれない。
この作品は葛飾北斎を描いた秀作で、北斎の「富嶽36景」が好きな私には非常に興味をそそられる作品だった。
版元・摺り師・掘り師、中でも版元との関係も面白かったが、北斎の絵と連動する北斎の生き様が凄く「リアル」に迫るようだった。
感情が北斎の絵の様にあっと息を呑む様なうねりで描かれていた。
最後の広重の表情の暗さ・陰惨な絶望と深手の暗さを描いてから執拗に溟い海を塗るところまでの心理描写の迫力のあることといったら・・・まるでそこに一人の山のようにケレンを抱えた男が蠢いているようだった。
北斎のあの絵はこの物語の中に息づいている男の絵に紛れも無いと思うくらいに!
返す刀があれば「広重を書くだろうな」とその時思ったが、果たして!やっぱり書いていたのを見付けた時は嬉しかった。
それがこの「花のあと」の中の忘れられない1篇「旅の誘い」だ。
しかも読んで凄いと思ったのはこの作品は「溟い海」とは全く別の表情を持っていたからだ。ここには今度は広重の絵のような表情があったからだ。
この作品に中では妻の生き生きした歓びの萌しを見て「金のために描くのも悪いことではないのだと」広重が思うところが好きだ。
広重が北斎と違って化け物のような芸術家では無くなるから?
私は広重の絵を「ふぅーん」と思って見るタイプの人間だ。
特に好きでも嫌いでもない・・・でも見ているうちにもういいかなぁと・・・しかし北斎は違う。
面白いことに夫は反対に「北斎は見事だと思わないではないけれど、好きなのは広重だなぁ。幾ら見ていても飽きない。」という。
蒲原由比あたりにある東海道広重美術館まで出かけて行ったくらいに彼は広重を好む。
辰斎が北斎に「先生の風景とは、また違った、別の風景画を見たという気がしました。」という場面があったが、私たちもそう、お互いに違った風景画を見ているらしい。
私には広重は素直に風景画と思えるのに北斎のそれは風景画と思えぬところがあって、作品によっては「凄いイラスト!」と思うこともあるが・・・風景を切り取るのが風景画だとしたら北斎のは違うだろうという気がしている。
だからこの二つの作品を読んでみても私は「溟い海」の方に強く引き付けられてしまう。
が、作品がこの二つあるということに妙にホットするのだ。
鞘から抜いた物は鞘に戻す作業が必要なように?
英泉が二つの作品で妙な魅力を発散させていて、浮世絵師の闇、芸術家の闇も厚くて深くてだけどそこには腐肉の中の天国があるのかもなぁ・・・と思わせられたりして・・・?引き付けられる作品たちなのだ。
さあて大江戸博物館に近いうちに出撃しましょうか。
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地下鉄(メトロ)に乗って

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浅田次郎著

この作品のキャッチフレーズを簡単に考えるとすると・・・
「ハートフル・タイムスリップ~あの頃には一生懸命が溢れていた!」なんてどうでしょう?
タイムトリップといってもこの作品は地下鉄地下道の古い出口と夢の二本立ての時間旅行です。
そこが目新しくてひねっていて他のタイムトラベル物と一線を画すところです。
ある意味では夢は地下鉄の出入り口を時間旅行のタイムマシンに出来ない場所にトリップするための苦肉の策ともいえるのかしら?
一つ旅行をして一つ知る、すると疑問が出来る、又旅をしなければならない。手を加えた過去のせいで普通だったらタイムパラドックス何かが変わるはずなのに変わった様子もないし・・・主人公はタイムトラベルが起こす二次的?変化の事を知っているから・・・最も今の読者は皆知っているから・・・だからこそこの物語の結末をどうつけるのか興味津々で読み進むわけで・・・。
ところがこの物語はその点でタイムスリップ物とは決定的に変わっている。「バック・ツー・ザ・フューチャー」とはいかない。
兄を自殺から救えたわけでもないし、父と和解するわけでもない。生活は変わるだろうが、・・・否、変わるのはみち子さんとの生活が清算されてしまったことだろうがしかしそれも間もなく彼の記憶から抜け落ちて行くことが約束されている。しかしこの清算は理にかなわない・・・なんてことはこの際言いっこなし。
色々な点で引っかかりはあっても醸しだされる懐かしさと切なさは読み応えがあります。
色々と時代に手をつけたにしては得たものは「知ったということ、見てきたということ」に尽きるのですから。
私がキャッチフレーズにつけた「ハートフル」と言う言葉は手垢が付き過ぎて軽過ぎるきらいはあるけれど、このタイムとラベルで「親の子である自分を容認できた。」という優しさに対してです。
そして「一生懸命」は真次と一緒に辿ることで私まで一緒に生きてしまったような気がする「小沼佐吉の生き方」にです。
父息子というのは母娘より会話が少ない分だけ難しいのかもしれない。確かに母と娘の場合は会話が多すぎて失敗することはあるけれど、父子の場合は会話が少なすぎて失敗することが多そうに見える。
父は息子に過去来し方を語らないし、息子も父のよってきたところを聞こうとしない。時々、事によっては、嫁の私の方が好奇心があった分舅の事を知っているかも・・・と、思うことがありますもの。
それはともかくこの作品ではみち子さんが「夢の事を話す部分、銀座線の上野駅のアールヌーボー・昭和のセンスについて語る部分」が凄く好きでした。
私は一度もみち子のように意識して乗ったことは無かったけれど、銀座線が私の一番の足だった小学生の頃がとても懐かしく思い出されて、泣けそうなほどでした。
浅草・上野・広小路・三越前・日本橋、私のテリトリーでしたもの。
私にとってこの物語の主人公は地下鉄が吐き出し吸い込むあの風のようでした。
記憶を吹き寄せまた散らす風。小学生の私にはきつい風でした。
それにしてもみち子さんは何のために存在していたのでしょう?
彼女無しでこの物語はありえなかったでしょううか?
いずれにしても、この物語の中で最高に優しかったみち子さんを悼みつつ本を閉じました。
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トミーとタッペンス

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アガサ・クリスティ著

「トミーとタペンス」について総集編!

「秘密組織」1922年
「二人で探偵を」1929年
「NかMか」1941年
「親指のうずき」1968年
「運命の裏木戸」1973年
ポワロさんもミス・マープルも作品がいっぱいあってとても全部の感想を書くのなんて私の手には負えないけれど、トミーとタペンスなら・・・5作だし・・・なんて・・・気分は生意気!
5作読み終えた勢いってもんです?
でも書かれた時間に間があるせいか(1922年から1973年まで、クリスティ31歳から83歳までの間に書かれた作品です。)、読んで受けた印象がこれほどまちまちだと却ってなんか言いたくなるなぁ。

まずは最初の登場「秘密組織」
二人はまだ二人合わせても45歳を過ぎない若さです。でもこの話の後直ぐ結婚したんですからね。
物語の進行と共に友人から同志と発展して恋を悟る・・・というわけで、作品そのものも初々しくて展開が早くてトミーの冒険タッペンスの冒険とくるくる変わる書き方で私の頭も回転させられてふらふら!
ジェットコースターで事件を駆け抜けて二転三転「面白かった!」だったんですよ、30年ぶり?くらいに読み直してみたら。
難を言えば多分そのごちゃごちゃ感?ふるいにかけて整理したくなっちゃうくらい。
当然の二人のロマンスの成り行きは余りにもイギリス的?大団円。だからいっそ、気持ちがいいって感じでした。この作品が面白かったから全部読んでみようと決意!を確固としたんです。

二人で探偵を
短編集。シリーズとしてみれば「外伝」的な作品群です。これも過去作品を参照ということで。

「NかMか」は諜報活動物です。
だから「秘密組織」のその後になりますが、もう子育ては終って退屈な?中年です。といったって、今の私より十年若い!46歳で爺さん扱いされて、仕事が無い?ちょっと許せない設定!と、思いながら読み始めました。勿論あの行動的な楽観的な、成り行き=GO!派?の二人ですから、ちゃんと事件はあります・・・というわけでお国のために一肌脱いで、何も知らない子供の会話に私たち読者も悪戯中年と一緒にニヤリ!です。「こんなお遊びしてみたい!」って思いませんでした?胸がすく!ってもんです。
きっとそれぞれに?「私にもトミーがついていれば・・・!」とか「俺にもタッペンスがいたら・・・!」なんて、思った人入るんじゃないでしょうかね?溜飲の下がる楽しい終わり方でクリスティの「ニヤリ」が見えるようでした。

親指のうずき」は既に書きましたから先回参照ってことで。

「運命の裏木戸」はもうなんと言っていいか。
何時面白くなるか・・・ならないなぁ・・・まだかなぁ・・・あァ、じれったいなぁ・・・どういう風になるのよ・・・と思っているうちに大団円?
殺された庭師の爺さんは殺され損じゃない?子供の探偵団は消化不良じゃない?・・・結局大昔からの噂話から何を取捨選択したの?と、私にとってはじれったい、鼻をつままれたって闇!みたい。
で、誰が過去の何をついでいて、庭師は何を知りすぎたのか?
「?」ばかりがずーうっと終いまで、煙に巻かれたよう。わたしってアホ?やっぱり!探偵団には入れてもらえない?
トミーとタペンスも年はとっても好奇心と探究心を忘れず、平凡な老後にも謎の花はどこにでもある「秘密の花園?」はどこにでも・・・って感じでしょうか?
私も退屈しきった老夫婦のつまらない生活に倦みつかれたくなければ日常から謎を探し出すことね?そしてあちこち首を突っ込むこと!邪魔にされても、うっとうしがられても、って教えられました?
でも、終わりの2作は忘れちゃいそうだな・・・と、思いました。
トミーとタッペンスは若さが一番魅力です。
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用心棒日月抄

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藤沢周平著

先日新聞の広告に「藤沢周平さんの世界」を作品ごとに地図や資料を載せた小雑誌が発行されるという広告が入っていました。
全部で30冊ほどになるのだったかしら?
藤沢さんの人気は凄い!と、改めて感心しました。
私も読みながら海坂藩の地図作ってみようかなぁ・・・と、漠然とですが考えた事があるくらいです。
藩主の家系図とかもできるんじゃないかなぁ、なんて。
やっぱり、やるよねぇ・・・ファンは!またはそれで商売できると思う人いるわよねぇ・・・!
実際いっぱい出ていますよ。でも又出るようです、それもシリーズで!
私は攻略本の類は買わない主義です。それって一種の攻略本でしょ?それなのになぜか購買申し込んじゃったんですねぇ・・・なんでだろう?
最初が「用人棒・・・」だったからかなぁ。*訂正「蝉しぐれ」が1号、用心棒は2号でした。
青江又八郎と出会ったとき、私は凄く嬉しかったのです。
その後、神名平四郎とか立花登とか伊之助とか魅力的な主人公何人にも出会いましたが、その中で最初に出会ったのが彼だったから特別な思いいれがあるのです。
周平さんは本当に沢山の魅力的な人物を生みだしたと感嘆し、そこから得られた沢山の楽しみに物凄く感謝しています。私の老後の?とっときのお楽しみのつもりです。
これまでどれだけ楽しませてもらったことでしょう。
青江さんはそれまで幾つか読んだ短編の主人公たちとは違って貧乏にいつも鼻面を引き回されていましたけれど、又危険に付き纏われていましたけれど、底に流れる明るさと逞しさは庶民のものでした・・・という気がしませんか?
それくらい地に付いていて生活があって敏くて気も心も回って・・・機転が利くと言えばいいんだ・・・一つ一つの挿話の解決が痛快で心温まる何かがあって・・・重層になったモチーフがしっかりしていて、いやぁーなんて素晴らしい小説だろうとすっかりファンになってしまいました。
だからこれ1冊で終らないで続きがあると分かった時は狂喜乱舞!でした。
だって、この話はこの1巻で実に見事に完結していたんですから。
「えー、どういう風に続けたんだろう?」でした。
で、正直に言っちゃうと、私の中で青江さんはこの1冊で終わりにするぞ!絶対終ったんだぞ!2・3巻は無かったんだぞ!と、言い聞かせています。4巻は読むのをためらったままです。
凄く惜しいのは1つ1つの「用心棒挿話」だけは残しておきたいという誘惑がそれでも私の心をつかんで離さないんです。
問題はこれが現代の単身赴任サラリーマンの話に置き換えられるような気がするからです。
そして私が付いてゆきたいのに付いていけない妻だという気がすることです。
ここで引っかかっちゃうんです。
由亀さんの事を考えちゃうんです。だから「日月抄」は良いのです。結ばれる望みは儚かったのですから、私は祈って読んでいればよかったんですからね。
でもその後は?彼女はおばばさまに仕え、留守を守り、夫を案じて日夜無事の帰還を待ちかねて、寂しさに耐えているわけです。
男は外へ出れば、同僚も仕事先もあり人との出会いも多い・・・危険もあるけれど絶対家にいるより生きがいがあるよ!
一緒に心を通わせて仕事をする人は多いでしょう・・・だからここで許せないんですね。夜鷹のおさきさんの挿話は許せますよ、なんとか。
でも、佐知さんはいけません!心を通わせる状況なのは百も承知でいやです。どうしてもいやです。心が通っているからいやです。
由亀さんはただでさえ不安の中に居続けて、健気に耐えているのに・・・やっぱり駄目です。
といって、佐知さんに文句はありません。
有能なこと、いじらしいこと、女性らしい全てのしぐさ、行動力、全く文句なしです。だからいけません。
由亀さん太刀打ちできないじゃありませんか、遠く離れて対抗する術無いんですもの。
それなのに3巻は酷に過ぎます。時代小説というより手馴れた男性読者向けの剣豪小説風?になっていくようで。
というわけで折角続きがあるにもかかわらず青江さんは「用心棒日月抄」で私の中では終わりなんです。
でもその1冊は大事な1冊なのです。
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孤宿の人

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宮部みゆき著

先日、「狩人と犬 最後の旅」という映画を見てきました。
読みながら度々アラスカ、カナディアンロッキーの北のはずれ辺りの広大な美しかった景色を思い出していました。この物語もとても景色描写が多いのです。
宮部さんの後書きに「讃岐丸亀をモデルに」と、書かれていて、その海と空と山の様子が繰り返し繰り返し描写されていました。
それが又如何にも日本の海と山と空らしく・・・実際行ったことはありませんが、丸亀辺りの小さな漁港と湾がちんまりと目に浮かぶようでした。
全く違うでしょう?なのに、その二つの自然の(多様な?)有り方をなんとなく、そうですねぇ、感嘆の思いで心の中で対照させていたのです。どこまで行っても自然と人は切り離せない!
自然もそれと向き合う人の姿勢もこんなにも違うのに、でもどこか相通じるような・・・生活から学び取って伝えられる智恵に同じような匂いがあるからでしょうか?
昔から人は生活の必要から天候の転変を知る知識を蓄え、伝えてきたのです(うさぎが飛ぶと半日と経たないで大風と雨が来るみたいに)、そこが私にあの映画を思い出させたのかもしれません。
「この自然の中にはこの人々!」でしょうか。
それにしても天候の変化の描写が・特に雷の表現がこの物語に迫力を与えていました。
主役の一つだったと言ってもいいでしょう?
あの映画は「最後の旅」にはならないのじゃないか・・・という希望?があって、心が楽になりましたが、この物語は完結しましたがどっかり重石をのせられたような後味が違いました。
やはり先日書いた「あやし」と同じ世界だと言ってもいいでしょう。
あのイメージを膨らまして長編が生まれ出たのじゃないでしょうか?「畏れ」の世界だと思いました。
「加賀様」が象徴する「鬼・異形の者・怨霊・祟り・・・」など・遠方から来る見知らぬ怖いもの全てとその地に根ざした畏れ敬われる怖いもの全てのぶつかり合いから生じる混乱!
その恐怖に心が絡み取られる昔からの人の変わらぬ世界がこの物語世界です。
阿呆の「ほう」という名をつけられた少女と、ウサギのようにはしこい目と体を持った「宇佐」という少女の二人語りの体裁で丸海藩の「その夏」が語られ、彼女等も翻弄され・・・成長し役目を果たし終えます。それでも未来は定かではありません。
人の世はひとつ事が過ぎても簡単には明るくはなりませんから。
自然の中で「素朴に生きる」ということはある意味「頑固頑迷、流言飛語に弱い、迷信に付き纏われる」ということと、この場合同義語です。
その意味では今も大差ないのがこの世でしょう。何か大災害があったら1番怖いのは火事?2番目は流言飛語、間違った情報ですよね。
ん?反対かな?
「加賀様」の情報不足または過多が招いたともいえますが、「加賀様」自体が闇そのもの鵺のようなものですものね。
「何が正しくて何が確かか」極める目を持った者はどのくらいいるのでしょう?
正しい情報がどれだけ大切か・・・いや正しければそれで済むのか?今も昔も難しい問題ですよねぇ、とため息が出ます。
それにしても理不尽なこの物語世界にも「ほう」が「方」になり「宝」になっていくその過程で光が射したようです。
「宇佐も殺す必要は無かったじゃないの!」と腹をたてながら、終わりの数ページ涙を止められませんでした。
本当に「あやし」と同じで「いやったらしい話だよ!」と思う気持ちの一方で「聡過ぎない」生き方が一番心を打つのかもと、「ほう」の周りに居た優しかった人の心を懐かしんでもいます。
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ゲド戦記Ⅰ影との戦い・ゲド戦記Ⅱこわれた腕輪

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ル・グウィン著

原語で読んだわけではないので・・・こんなこと言うと妙におかしいな!と、自分でも思いますけれど、この乾いた、淡々とした文章、妙にいいですねぇ。これは翻訳者の手柄なのでしょうか?
それとも原文が素直な分かりやすい文章なのでしょうか。
対象が小・中学生だとしたらそうかもしれませんね。
でも実際読んでみると私(大人のつもりだけど)も得るところもあり楽しく読めました。
年代記って感じでした。
ゲドが成長し老いてゆく一生の物語らしいです。
しかも波乱万丈のはずの物語です。それなのにこの静かな語り口はどうでしょう!
読む私も気持ちのはやりにせかされることなく偉人の生涯を読むように読んでいましたね、振り返ってみれば。
「指輪物語」のような壮大さとも違い、「ナルニア国物語」のようなファンタスティックとも違い、でも不思議な魔法を感じさせてくれましたよ。
丁度太古の物語を淡々とした語りで聞くような品位を感じました。
何気ないけれど凄い科白がいっぱいちりばめられていて、ある意味「人生を深遠に・だけど簡単な言葉で語っているぞ!」っていう感じです。
「自分がしなければならないことは、しでかした事を取り消すことではなく、手を付けた事をやり遂げることだった。」どうです?
当たり前すぎるって?それではこれはどうです?
「ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。全てをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。」何か感じない?
ユックリ読んでいくとどこかに今の自分の指針になるものが隠れているような気がして、じっくり読んでいきましたが、それでも(その意味で)読み落とした大事なフレーズがあるのではないかとドキドキしました。
どの年齢層の人でも、多分自分が必要とする、またはハット閃く何かを見出せる羅針盤のような物語だと思いました。
どの偉人よりも何かを与えてくれる偉人伝でしたね。それに不思議な旅行記でもあってね。
ふうわんと嬉しい気持ちに支配されて本を閉じました。
その意味では「Ⅱ」もそうでした。
最も図書館から最初に「Ⅱ」が届いちゃったので、サッパリ何を書きたいのか読ませたいのか「?」だけだったんです。「Ⅰ」を読んで納得!
この本は「Ⅰ」から読むのがお薦めです!って?大体「Ⅱ」から読む人なんて普通居ませんよね。
図書館さんももう少しお利口なシステムお願いしますよ!
ゲドはこの作品では触媒です。
テナーが自分に目覚めていき進路を選び取る物語でした。
テナーはゲドに会うことである意味で生き始めたのですから。やはり「Ⅱ」もゲドの歴史物語の1部でもあるのでしょう。
本当は全部読み終えてから書くべきだと思いましたが、この先はまだ暫く来ないと思われるので、とりあえずです。「Ⅲ」が届くのをワクワクしながら待っているのです。
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あやし

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宮部みゆき 著

さてさて、妙なめぐり合いで読んでしまいました。
一寸前になりますが、浅田次郎さんの作品を2冊読んで、又何か読もうかな?と思ったら、グッドタイミングで新聞に広告が。
浅田次郎著「あやし、うらめし、あなかなし」明日発売!
この題、ぐっと来るじゃありませんか?
私の心の琴線をキンとかき鳴らしましたね。
字づらも、響きも、平安朝っぽさも、・・・読みたい・・・読むべし!
で、即、図書館検索。ヒット無し。
あらら・・・まだ発売されていないから?予約は行かなくちゃならないのかな?と、思いながら発売翌日・・・申し込みできました・・・500人目!「?」えええっ?
改めて浅田さんの人気の実力?の程を知りましたねぇ。
でもその代わりに「あやし」で検索に引っかかったのが宮部さんのこの本でした。
「あやし」・・・うーん、時代小説っぽい!時代小説だ、時代物に間違いない!
それも、お初ものに近い感じ?本所・幻色系?と言うわけで、読む本が途切れた数日前に申し込みまして、違う分室にあったので届くのに2日かかりましたが、時代小説に間違いはありませんでした。
それも実に怪しい「あやし」でした。
正直読むんじゃなかったなぁ・・・と、思いながら読んでいました。
今までの宮部さんの本の中では一番「毒っぽい?」と言いますか、私的には「不」とか「非」とかの漢字を使って表現したいって感じでした。
この本の感想に適したキーワードを並べよ!と、言われたらもう素直に「恐い」「怖い」「畏い」「懼い」に次いで「不気味」「嫌」「不気味」「嫌」。
ですが、日本の昔ってこういうものに満ちていたのかも・・・なんて、読み終わったら思っていました。
なんか、奈良時代ぐらいからこっち・・・「怨霊」跳梁していたじゃないですか?最近は聞きませんけれどね。
勿論この物語に出てくる何者かは怨霊なんて恐れ多い尊いものではありませんが。
長く使っていた道具なんかも粗末に捨てると・・・化け物になる・・・っていう類の日本の物の怪・・・「何かを恐れる気持ちと、その気持ちが生み出す何か」と、「やましいと思う気持ちとやましさが生み出した何かと」
だから、何かにまたは誰かにやましくなるような事をしてはいけないし、何かを恐れて慎む気持ちを忘れてはいけない・・・っていう今はもう忘れられた「心の緊張感」みたいなものを思い出しました。
そういえば先だって我が家に来た客人が「往生要集」を持っていました。
「大昔お父さんが読んでいるのを見たっきりだわ・・・お若いのに珍しいものを読むのね?」と、言ったら「子供たち(小学生)に地獄を教えておきたくて。」とおっしゃっていました。
凄く頷いてしまいました。「そうだ!そうよ!」
地獄が無くなってから?日本人は恥や、愧や、辱を忘れて自分だけが良ければよくなったんだ・・・って、久しぶりに思い出させてもらいました。
「あやし」の中にはそういう忘れられた「恐れなければならないもの」「畏れなければならないもの」「懼れなければならないもの」が詰まっていました。
この短編集の中では「安達家の鬼」という話だけが好きです。
お母さんの気持ちとてもよく分かるような気がしましたし、お嫁さん以上に多分頷いて聞いていましたよ。私の鬼はどんな目をしているのでしょう?って。
宮部さんもこの本の中に作家の内なる「灰神楽」の灰のようなものを詰め込んだんじゃないかなぁ・・・って言う感じを受けました。
出来得れば、人は感情を凝縮して煮詰めて重石を載せて圧縮・抽出するようなことは避けて、さらさら生きたいものだと・・・特に「うらみ・ねたみ・そねみ」などはさらっと捨てて・・・と、思ったことでした。
出来得れば・・・ですけどね!
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二人で探偵を

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アガサ・クリスティ著

「アガサ・クリスティの奥様は名探偵」という映画に備えて原作の「親指のうずき」を読んで書いたばかりです。
それなのにこんなに早く訂正とお詫びを書く羽目になるなんて・・・。
誰にって?勿論、敬愛する「アガサ・クリスティ女史に!」に決まっているじゃありませんか。
「トミーとタッペンスの他の作品も読み直して見る。」と書いたでしょう?で、早速。
ここ数年で、沢山の古い本を処分しました。きれいな物はブックオフへ、中途半端な物は郵便局の貸本コーナーへ、どうにも汚れた物・名前を書き込んだ物等は諦めて処分しました。
エラリー・クイン様の黄色に変色した文字の小さな文庫もまとめて泣く泣く諦めましたが、クリスティ女史の作品は買ったもの1冊も処分しませんでした。だから汚くなった滲みだらけの古い文庫でこの作品を読み返しました。先日も書いたように初めて読んだ当時好きにならなくて、1回読んだだけでお蔵入りした小説です。320円で買った文庫です。
友人が貸してと「秘密組織」を持って行っちゃったので、「親指・・・」に続いて残されたこの作品を読み返したのですが・・・つまり「お詫びと訂正」です。
このトミーとタッペンスの短編小説群は「面白かった!」のです。
えー、何で若い頃この面白さがわからなかったのだろう?と、不思議ですが、「秘密組織」も「NかMか」も読み返していない段階でトミーとタッペンスが大好きになったとはまだ言えません?
だって「親指・・・」を読んだ段階ではやっぱり未だ私にとってはクィン氏、ポワロさん、ミス・マープル、パーカー・パイン氏の順は不動です。
でも、この作品は文句無く面白かったです!もう一度言います。
多分彼らの「なりきり探偵」群に当時私がついていけなかったからかもしれません。といって、今なら「皆分かる!」というわけでは勿論ありません。
今だって、よく分かるのはシャートック・ホームズ様くらいです。ソーンダイクさんは1冊ぐらい?ブラウン神父も1・2冊?フレンチ警部も1冊くらい?かじっただけです、それも遠い日に。
でも、最後の章でポワロとヘイスティングスが出てくるに及んで、思わずこの本の遊び心に喝采してしまいました。
多分私がもっと豊富な読書をしていれば?多分もっと面白く読めた!かもしれない・・・が、しかし、この短編集はトミーとタッペンスの掛け合いと呼吸が最大に楽しめる読み物になっているのではないでしょうか?
アルバートの活躍も楽しいし・・・犯人たちもそこそこ面白い?し・・・二人の息の小気味よさで思わず笑いながら読み進んでしまいました。
短編のせいか「親指・・・」で、もどかしく思ったようなところは無く、ぽんぽんと進むテンポもリズムも心地よくて、初めてこの夫婦探偵物を読むなら、この短編集から入るのがいいんじゃないかなぁ?と、思いました。
多分この「夫婦物」全部読んでみても、クリスティ女史の主人公への私の思い入れ順って言うのは変わらないと思いますけれども、「好きじゃない」とか「好きになれなかった」とか言う言葉は全部取り消します。
この作品の二人は本当にはつらつとして、楽しそうでした!
結果、私も楽しかったです。作者も書くの楽しかったんじゃないかなぁ。
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ダ・ヴィンチ・コード ヴィジュアル愛蔵版

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ダン・ブラウン著   角川書店

さて、以前に「ナルニア国物語のスペシャル・エディション版」について書いてみたことがありますが、これも一寸似ています。
「本」を読むだけの「本」ではありません。
内容に基づいて、図や絵や資料が写真で挿入されているのです。
そこが「ヴィジュアル」ということです。
したがって本は分厚く重い!
「スペシャル・エディション・ナルニア国物語」ほど大きく、重くないのがまぁ、救いです。これなら何とか?持って読めないことはありません。
しかもとても親切です。売れると、こういう本も出るから楽しいですよね。
この本をもう一回読み直してみたいと思っていたので、図書館の目録にこの本を見つけて申し込みました。
実際読み直してみたら、見落としていたこと大発見!って、感じです。
こういう本だと、吹っ飛ばして?読めないので、かえっていいかもしれません。
面白ければ面白いほど、先へ先へと、すっ飛ばし読みしてしまうんですもの。
これなら集録してある写真をじっくり見ながらなので、吹っ飛ばせません。
ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をじっくり見ながら、なるほど確かに隣にいるのは女性に見えるとか、腕の数を数えながら読めて、なるほどこの余分の1本の腕は?とか、Mの字を辿ることも出来るというわけです。
サン・シュルピス教会のローズ・ラインの写真も、武器にされてしまったその教会の燭台も、その場で実際の物の写真を見ながら、実感?できます。
ルーブルにある「岩窟の聖母」と、ナショナル・ギャラリーにある「岩窟の聖母」を並べて比べながら見ることも出来ます。
ちなみに私は数年の時を隔ててですが、この作品をどっちも実物を見ているのです。にもかかわらず、この本で読んだ時、当然?のことながら、その違いを思い出せたわけありません。
初めからこの違いの知識を持って見に行ったわけではありませんでしたからね。やっぱり必要に迫られてしっかり比べてみないと普通分かりませんよ・・・って、いい加減なのは私だけ?
あの当時レオナルドには「二枚の「岩窟の聖母」があるんだ!」くらいの知識しかなくて、違いが何によるものだか全く知りませんでしたから。
それでも美術館にある絵なんかは美術書で見つけやすいし、見たことあったりしますけれど、めったに見られない写真が収録されているのが嬉しかったです。
「太陽崇拝とキリスト教の融合」のところで「エジプトの太陽神の頭上の円盤がカトリックの聖人の光輪に化した。」と読む時、直ぐその前のページにはエジプトの太陽神のレリーフとカトリック教会の聖人のレリーフが並んでいれば、「なるほど!」が簡単。
象徴の図柄とか、教会の内部写真とか、オプス・ディの本部とかカステル・ガンドルフォとかロスリン礼拝堂とか見る機会なんてまず無いですものね。
アナグラムも綴りが横にちゃんと書かれていれば理解もしやすいというわけです。
「天使と悪魔」を読んだらローマに行きたくてたまらなくなったように、だからこの本を再読してしまうと「パリ」と「ロンドン」へ行きたくてたまらなくなります。
ロスリン礼拝堂なんか特に。
あれもこれも見逃した。あそこもここももう一度訪れて見たいわ・・・という気分をなだめるのには最適の1冊でした。
4500円が妥当かどうかじっくり考えて「愛蔵」するか・・・?
でも、図書館にあるからなぁ・・・もう少しすると?待たずに借り易くなるかもしれないし・・・と迷うところです。

博士の愛した数式

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小川洋子著

映画を見た時とても感動したので、きっと「原作はもっと素晴らしいに違いない!」と思いました。
それで帰ってきて直ぐ図書館に予約したのが一昨日ようやく届きました。
期待に違いませんでした。
久しぶりに、きちんと抑制された明快で美しい日本語の物語でした。
てらわず押し付けず、心地よく鼻の奥のじんわり感と共に心地よい豊かな読後感のある素晴らしい小説でした。
私は心密かに絶賛いたしました!(私に絶賛されてもね?)
「東京タワーも良かったろう?」って?
「ええ!」でも、あれは文体も面白く、感動的でしたが、その感動に「直球勝負!」みたいなところが有ったでしょう?
この「博士の・・・」は練り上げられ繊細に構築された緊密な世界がなんともいえない優しさで心の中に浮遊してくる・・・山形の緩い曲線を描く・・・そうね、そんな球筋とでも言えばいいのでしょうか?
面白いわね、豪腕江夏の懐かしいエピソードがちりばめられているのに・・・それがかもし出す雰囲気は静かな美しさだなんて・・・。彼らの物語に精彩を与えていた江夏の挿話が私にセピア色を帯びた懐かしく、帰らぬ日々を思い起こさせました。
限られた時間の中で無限の世界を持つ博士と、素直にその世界を理解しようと寄り添う主人公の優しい心根と、きっと持って生まれたに違いないと思われるような敏い洞察力で博士に向き合うルートとの織り成す世界の不思議は博士の愛する静かさで読む人の心に染みとおってくるようです。
こんな世界を繰り広げる人ってどんな心をお持ちなんでしょうね?
小説と数字って思いもかけない組み合わせで、こんなにも詩的な情緒がかもし出されるなんて、なんかワクワクしましたね。
小川洋子さんという名前は知っていましたが今まで読もうかなと思ったことがありませんでした。
又一つ泉を発見したのでしょうか?
それにしてもと私も深沈と?自分の数学の歴史に向き合ってしまいました。博士のような方に数学を習っていたらどうなっていたでしょう?
私はこの本を食い入るように読んでいても「フェルマーの最終定理」とか「オイラーの公式」とかのことも、その美しさも、博士の書き綴る沢山の数式に見えるレースのような美しさも、本当のところ分からないのです。
それでもこの登場人物たちが跪く数字の美しい世界が存在し得るのだという事を、この本を読んでいる間一度たりとも疑いはしませんでした。彼らは私の中で∞に広がり、そっとしまい込まれて永久に忘れ去られることは無いのだと確信しています。
それにしてもなぁ・・・中学3年の時までちゃんと通信簿で5を貰っていたのに高校のどこで分からなくなったものだか・・・それすらも分からない私です。
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