浅田次郎著

この作品のキャッチフレーズを簡単に考えるとすると・・・
「ハートフル・タイムスリップ~あの頃には一生懸命が溢れていた!」なんてどうでしょう?
タイムトリップといってもこの作品は地下鉄地下道の古い出口と夢の二本立ての時間旅行です。
そこが目新しくてひねっていて他のタイムトラベル物と一線を画すところです。
ある意味では夢は地下鉄の出入り口を時間旅行のタイムマシンに出来ない場所にトリップするための苦肉の策ともいえるのかしら?
一つ旅行をして一つ知る、すると疑問が出来る、又旅をしなければならない。手を加えた過去のせいで普通だったらタイムパラドックス何かが変わるはずなのに変わった様子もないし・・・主人公はタイムトラベルが起こす二次的?変化の事を知っているから・・・最も今の読者は皆知っているから・・・だからこそこの物語の結末をどうつけるのか興味津々で読み進むわけで・・・。
ところがこの物語はその点でタイムスリップ物とは決定的に変わっている。「バック・ツー・ザ・フューチャー」とはいかない。
兄を自殺から救えたわけでもないし、父と和解するわけでもない。生活は変わるだろうが、・・・否、変わるのはみち子さんとの生活が清算されてしまったことだろうがしかしそれも間もなく彼の記憶から抜け落ちて行くことが約束されている。しかしこの清算は理にかなわない・・・なんてことはこの際言いっこなし。
色々な点で引っかかりはあっても醸しだされる懐かしさと切なさは読み応えがあります。
色々と時代に手をつけたにしては得たものは「知ったということ、見てきたということ」に尽きるのですから。
私がキャッチフレーズにつけた「ハートフル」と言う言葉は手垢が付き過ぎて軽過ぎるきらいはあるけれど、このタイムとラベルで「親の子である自分を容認できた。」という優しさに対してです。
そして「一生懸命」は真次と一緒に辿ることで私まで一緒に生きてしまったような気がする「小沼佐吉の生き方」にです。
父息子というのは母娘より会話が少ない分だけ難しいのかもしれない。確かに母と娘の場合は会話が多すぎて失敗することはあるけれど、父子の場合は会話が少なすぎて失敗することが多そうに見える。
父は息子に過去来し方を語らないし、息子も父のよってきたところを聞こうとしない。時々、事によっては、嫁の私の方が好奇心があった分舅の事を知っているかも・・・と、思うことがありますもの。
それはともかくこの作品ではみち子さんが「夢の事を話す部分、銀座線の上野駅のアールヌーボー・昭和のセンスについて語る部分」が凄く好きでした。
私は一度もみち子のように意識して乗ったことは無かったけれど、銀座線が私の一番の足だった小学生の頃がとても懐かしく思い出されて、泣けそうなほどでした。
浅草・上野・広小路・三越前・日本橋、私のテリトリーでしたもの。
私にとってこの物語の主人公は地下鉄が吐き出し吸い込むあの風のようでした。
記憶を吹き寄せまた散らす風。小学生の私にはきつい風でした。
それにしてもみち子さんは何のために存在していたのでしょう?
彼女無しでこの物語はありえなかったでしょううか?
いずれにしても、この物語の中で最高に優しかったみち子さんを悼みつつ本を閉じました。