藤沢周平著

上京した父が丁度読み終わったと置いて帰った。
久しぶりに見るこの本、読んだのはかなり前のことになるが、記憶していたのはこの短編集の中に3編忘れられない作品があるからだ。
「寒い灯」「旅の誘い」「花のあと」の。
しかし私にとって極め付きの1篇は「旅の誘い」だ。
藤沢さんの短編集で最初に読んだのは「暗殺の年輪」という作品で、その中の「溟い海」で藤沢さんの作品に「填まった!」ということは以前にも書いたかもしれない。
この作品は葛飾北斎を描いた秀作で、北斎の「富嶽36景」が好きな私には非常に興味をそそられる作品だった。
版元・摺り師・掘り師、中でも版元との関係も面白かったが、北斎の絵と連動する北斎の生き様が凄く「リアル」に迫るようだった。
感情が北斎の絵の様にあっと息を呑む様なうねりで描かれていた。
最後の広重の表情の暗さ・陰惨な絶望と深手の暗さを描いてから執拗に溟い海を塗るところまでの心理描写の迫力のあることといったら・・・まるでそこに一人の山のようにケレンを抱えた男が蠢いているようだった。
北斎のあの絵はこの物語の中に息づいている男の絵に紛れも無いと思うくらいに!
返す刀があれば「広重を書くだろうな」とその時思ったが、果たして!やっぱり書いていたのを見付けた時は嬉しかった。
それがこの「花のあと」の中の忘れられない1篇「旅の誘い」だ。
しかも読んで凄いと思ったのはこの作品は「溟い海」とは全く別の表情を持っていたからだ。ここには今度は広重の絵のような表情があったからだ。
この作品に中では妻の生き生きした歓びの萌しを見て「金のために描くのも悪いことではないのだと」広重が思うところが好きだ。
広重が北斎と違って化け物のような芸術家では無くなるから?
私は広重の絵を「ふぅーん」と思って見るタイプの人間だ。
特に好きでも嫌いでもない・・・でも見ているうちにもういいかなぁと・・・しかし北斎は違う。
面白いことに夫は反対に「北斎は見事だと思わないではないけれど、好きなのは広重だなぁ。幾ら見ていても飽きない。」という。
蒲原由比あたりにある東海道広重美術館まで出かけて行ったくらいに彼は広重を好む。
辰斎が北斎に「先生の風景とは、また違った、別の風景画を見たという気がしました。」という場面があったが、私たちもそう、お互いに違った風景画を見ているらしい。
私には広重は素直に風景画と思えるのに北斎のそれは風景画と思えぬところがあって、作品によっては「凄いイラスト!」と思うこともあるが・・・風景を切り取るのが風景画だとしたら北斎のは違うだろうという気がしている。
だからこの二つの作品を読んでみても私は「溟い海」の方に強く引き付けられてしまう。
が、作品がこの二つあるということに妙にホットするのだ。
鞘から抜いた物は鞘に戻す作業が必要なように?
英泉が二つの作品で妙な魅力を発散させていて、浮世絵師の闇、芸術家の闇も厚くて深くてだけどそこには腐肉の中の天国があるのかもなぁ・・・と思わせられたりして・・・?引き付けられる作品たちなのだ。
さあて大江戸博物館に近いうちに出撃しましょうか。