アルト・ハイデルベルク

題名INDEX : ア行 536 Comments »

マイヤー・フェルスター著

今月末にドイツ・ロマンチック街道の旅をすることになった。
フランクフルトから入って、ラインの旅とロマンチック街道をゆっくり辿り、
ミュンヘンから北上してハイデルベルクで締めの2泊をして帰るという旅だ。
ハイデルベルクと言う文字を見た瞬間に思い出したのが「アルト・ハイデルベルク」
ベルリンを通るなら絶対ケストナーの本を読み返すところだけれど
(だって、私はドイツ!ときたらケストナー!だもの)、ハイデルベルクと言ったらこれ!
そう思って直ぐに観光案内より先に読み始めたのだけれど、
借り出した図書館の本は実に古びていて懐かしい小さな文字の1990年の岩波文庫。
ひょっとして、もう絶版?
そういえば上演されることも無いようだ。
私たちの世代はこの本の題名だけは耳にしたことがあるだろうけれど、
今の若い人たちはもう読むことも無いのかもしれないなぁ。
本当に何十年ぶりかの再会で、物語の静かな悲哀の中を漂いながらつらつらと思ってしまった。
この物語は悲恋物語として頭に残っていたけれど、実はそういうものでも無かったのだと。
ドラマらしいドラマ、物語らしい物語、ロマンスらしいロマンスは
今この時代から見るとこの戯曲の中には無いのだと。
彼は「ハイデルベルクへの憧れは君(ケイティ)への憧れだった!」と信じているのかもしれないが、
彼の真の憧れはハイデルベルグの学生生活が象徴する自由への憧れだったのだと思う。
カール・ハインリッヒの失ったものはケイティではなくて、青春そのものでもなくて、
ハイデルベルグが象徴する自由だったのだと。
私は青春の恋だとずうっと思っていたけれど、彼の先生自身もずうっと恋がれ、カール・ハインリッヒに植えつけたものは青春時代に一番輝く自由なんだと。
失ったものが青春の恋ならば、時が癒してくれる。
しかし彼の失った自由はどんな時も癒せはしない。
だから、カール・ハインリッヒはあんなにも惨めであんなにも悲しい像として心に残ったのだ。
現在はある意味自由に満ち満ちているから、この物語はもう読まれることは無いのかもしれない。
それでもこの本の中に漂う悲哀は十分に私の旅心を刺激してくれた。

ドリトル先生航海記

題名INDEX : タ行 323 Comments »

ヒュー・ロフティング著

今朝方全く思いがけないことに、ドリトル先生の巨大透明巻貝の中に入ってゆったり海底散策をしている夢を見た。
それだけ今朝の目覚めが心地よかったということだろうが、こんな夢初めてだし・・・三屋清左衛門のびっしり汗にまみれて目覚める夢よりか「なんぼか素敵!」だとは思うものの・・・すっかり忘れていた本だったから、余りに唐突といえば唐突!
布団の中で清左衛門さんと同じに、暫くその因って来るところを顧みるという作業に没頭してしまった!
ひょっとして昨日、旭川の動物園の白熊やペンギンやアザラシが泳いでいる映像をたっぷり見て、行ってみたいなぁ・・・と思ったからかもしれないなぁ?と、思い当たった。多分?
私自身子供の頃読んで好きな本だったから、二人の息子にも読んでやって、更にシリーズ全部の本を揃えたのだが(10冊以上あっただろう)、子供たちがよく読んだのは結局最初の1冊だけだったようだ。
子どもよりむしろ私の方が楽しんでシリーズを読んだのかもしれない。
その本たちはもう大昔に?甥の所に越して行ってしまったので確認できないが、沼のほとりのバドルビーの長閑で忙しい明け暮れの楽しく面白かったこと!
登場する動物たちの抱える様々な問題の多彩なこと、ドリトル先生のところに持ち込まれる問題の思いがけない解決と、そこに至るまでに先生がする心遣いや見せる優しさや機転、奇想天外でふくよかな楽しさに満ちていた。
動物たちの日常から、奇妙奇天烈な動物の登場など、おかしかったことといったら!
「おしつおされつ」なんていう動物がいたなぁ。
それに絶滅したはずの私が夢に見た透明大貝や月からの蝶や緑のカナリア、物凄く長寿の大亀もいたなぁ、どうしたらこんな話を思いつくんだろうと感嘆したっけ。
トトとかガブガブとかチープサイドとか動物の名前も可愛くて。
私の方が先生の助手に名乗りを上げたいと思っていたことなどを覚えている。
もう大分前になるがそのドリトル先生が映画になると言うことで楽しみにしていたら、ナント!来たのはエディ・マーフィーのドリトル先生だった。
「嘘!」
「え、なんで?」
「どんなドリトル先生が出来たの?」
「換骨奪胎って、こういうこと?」と、あっけにとられたっけ。
エディ・マーフィーだから「おかしくないはずは無い!」んだけれど、
どうにも・・・いや、どうしたらいいんだろ?どうも出来ません!
若い頃はただ思いっきり笑って見られたエディだけれど、年を取ってくるとどうにもいけない。
彼を楽しむのにはエネルギーが要るんですね。
「よほど調子のいいときじゃなければくたびれちゃって見られるものではありません!」という感じなのだ。
でもドリトル先生はきっと幾つになっても読めるし、エネルギーがなくなってきた今こそ読むには絶好の本かも知れない。
今の私に必要なのはドリトル先生のような辛抱強い優しさと、柔軟な頭と、どんな奇妙な出来事にも対処できる機転のようだ。
それさえあればどんな老後も鬼に金棒!
「いい本を思い出したなぁ!」と、得をした気分の朝だった。
Read the rest of this entry »

三屋清左衛門残日録

題名INDEX : マ行 591 Comments »

藤沢周平著

時代物って、ここ数年ますます人気になっているって本当でしょうか?
駄目といわれれば読みたくもなります。
小学生の頃父親の本棚は秘密の花園。
「下の方はお前たちも読んでいい本・ここから上の方はもう少し大きくなってから。」といわれれば、上の方から読みますよね?
そんな天邪鬼は私だけ?
というわけで中学になる前にもう子母沢寛・村上元三・柴田練三郎・などを読み飛ばして、たどり着いたのが山本周五郎さん。
心残りは「読んで良し!」と言われたばかりに読まなかった島崎藤村全集!なぜか今更とっつけないのです。
そんなわけで中学生の頃は周五郎さん三昧。
他の方々には私は馴染めませんでしたが、周五郎さんの世界はそれに比べてなんと居心地が良かったことでしょう。
お説教じみていていやだという人もいるようですが、私には素直になれる優しい世界でした。
悲しみも辛さもじんわりと沁み込んできて、だからこそ優しさも響いてくる世界でした。
あらかた読んでしまってさぁ、どこへ?
そして時が流れて藤沢周平さんにめぐり会ったのです。
周五郎さんを読みふけったように、周平さんを読みました。
「溟い海」から入って虜になったのですから、最初明るい優しい世界だと思っていたわけではありません。
それでも周平さんは一気に読ませる何かを持っていました。
重い暗い苦しい世界から明るい光や望みに満ちてひょうきんなユーモアのある世界まで広い広い世界が広がっていました。
本の中の人がそこで生活していて、生きていて、泣いて、笑って。
読めば読むほど魅力的な世界が広がっているようでした。
「時代小説」は別に昔の人の生活を覗くものではありません。
人の心の世界はどんな衣をまとっていても普遍だという事を実感させてくれるだけで、そこの住人は今隣を歩いている人となんら変わりは無いのです。
彼の紡ぎ出す世界は「リアルがセピア色を帯びているだけ」という気がします。
だから私も一緒に笑い泣いて・・・
特に「三屋清左衛門残日録」は「いい世界で、いい心持で読めて、読後感も良くて・・・周平さんて本当にいいなぁ!」でした。
それが60歳を目の前にして、もっと切実に「いいなぁ・・・!こんな風に生きていけたらなぁ。」的?読み方になってきて、今では清左衛門さんの世界に密着している感じです?
清左衛門さんは55歳前のご隠居さんですけれども。
是非引退?する迄に、ご隠居さんになる前に、夫に読んでもらえたらと思うのですが、(男の中にはこんな人も居るんです?)周五郎さんや周平さんの世界を情が勝ちすぎていて軟弱だと思っているようで?(読んだこと無いくせに!)残念ながら読みません。
せめて出だしの第1章「醜女」だけでもねぇ・・・と、思うのですが。
老いて残りの日を数える「残日」ではなくて「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」の意味だそうです。
確かに清左衛門さんの人生はまだまだ色々あり賑やかでもありますが、一つ一つの挿話に緩い下り勾配を歩んでいるそこはかとない悲哀が漂って、坂道を下っている私にも迫ってくるものがあります。
友人たちに「これ本当にいいわよぉ!」と、貸したら、
「ホント面白かった!」
「じゃァ、次私が借りるね。」・・・といって廻っているうちに行方不明になってしまいました。
皆夫が定年、もしくは限りなくそこに近づいているから?
還ってこないので読みたくなったら図書館で借り出してくる始末です。
ストレス解消には周五郎さんの「日本婦道記」を読んで思いっきり涙を絞るか、周平さんの「三屋清左衛門残日録」を読んでソフトタイプの感傷に浸るか!の私です?
最近映画やTVドラマでも彼の原作になるものが多くなりましたから、TVや映画で周平さんを好きになる人も多いのでしょうね。
特に数年前にNHKでしたTVドラマ「三屋清左衛門残日録」はなかなか丁寧なよい出来栄えだったと思いました。
仲代達也さんは適役でしたが、それ以上に熊太役の財津一郎さんが秀逸で私のイメージにぴったり、更に南果歩さんの嫁・里江がきりりと歯切れよく明るさが小気味よく良かったと思いました。
せめて「蝉しぐれ」もこのくらい丁寧に・・・ねぇ・・・!
Read the rest of this entry »

検屍官

題名INDEX : カ行 100 Comments »

ロザムンド・ピルチャーさんの後に取り上げておきながら、作品紹介を一つも上げていないのは余りといえば余りに、片手落ち!
と、自分で自分を責めた結果・・・ヤッパリまずはデビュー作でしょうね!
1990年に出版されたこの作品でコーンウェルはデビューしました。目覚しいデビューだったようです。
さて、この作品はアメリカのバージニア州リッチモンドが舞台で、主人公の検屍官ケイ・スカーペッタもこの後続く作品群の主人公としてこの作品で、まぁデビューです。
私はバージニア州のリッチモンドには行ったことはありませんし、行く予定も無かったのですが、この作品を読んで永遠に行く気は起きないだろうと断言できます。
アメリカの殆どあらゆる地を舞台にした恐ろしい映画なら結構見ていますが・・・ロサンジェルスやサンフランシスコやシカゴやマイアミの恐ろしいことといったら!
リッチモンドには「!」が幾つあっても足りないくらいです。
この本を読み終わった後ほど、このシリーズを読み続ける度にリッチモンドという都市への恐怖感が募りました。
ケイが転勤してもこの恐怖感薄れはしませんよ。
作家にはこの地を選ぶ特別なわけがあったのでしょうか?
架空の都市名をつけなかったのはリアリティのためですか?
ワシントンはこの直ぐ近くですが、ワシントンなら行ってもいいかな?・・・って、そんな・・・甘い!
「NYに一週間も滞在して無事に帰ってこられたなんて、人口比で考えると奇跡だったんだ!」と今は思っています。
アメリカの都市ではいや田舎でも事件に巻き込まれないで生き抜くなんて殆ど奇跡に近いんだって言う気分に陥りました。
全く猟奇的な事件「屍」に満ち満ちているようですね。
「検死官」じゃなくて「検屍官」であるところからもう怖いです。
でもこの本が読ませるのはこんな世界にも一生懸命自分の責務を果たそうと努力する人々がいて、正義を信じて働き続けているからなんです。
しかも彼らはそれぞれに自分の問題も抱えているのですから、いやでも共感できてしまうじゃありませんか!
現代を、それぞれに背負っている物は違っても、あがきながら生きていて、しかもまっとうに生きようとしている人々が海の向こうのこんなにも辛い世界にもちゃんといるんですねぇ・・・なんて。
それだけ登場人物の描かれ方に魅力があるんです。
「屍」をさらす人々さえもそうなんです。彼らにも人生があったんです。
主人公のケイも、私のお気に入りのマリーノ刑事もウィンゴーやバンダーや共に働く人々それぞれがしっかり書き込まれていて生きている。
しかし彼らは本当に悲しい。
まだこの話では幼い姪のルーシーにしたって幸せな今後が約束されているわけでもない不透明さ、悲しさ。
本の中で私は彼らと生きることの悲しさを分け合ってしまう。
つい「彼らの明日は?」と思って更に一冊読み進んでしまう・・・といった具合なんです。
でも警告しておきます。
私は本のカバーで作者のパトリシア・コーンウェルの写真を見てしまったんです。そしたらすっかりその顔にケイが填まってしまったんです。
だって作者の顔写真、ケイについて書かれた表現の雰囲気なんですもの。
で、困ったことにケイが動くたびにその姿にパトリシアの顔が乗っているといった「不始末?」です。
自分のケイをイメージしたかったら、くれぐれも作者の顔を見ちゃわないようにね。
オット、肝心な事を。
科学捜査ってこんなに進んでいるって事をこんなに簡単に書いちゃっていいんでしょうか?
でも捜査が進んでいく様子は固唾を飲みますし、面白くて夢中になって読み進んじゃいます。
「凄いや!こんなことが割れちゃうんだ!」の連続です。
多分勿論現実はモット進んでいるんでしょう。
逃げるものと追うもののいたちごっこは永遠のテーマですが、この本を読んだら、私にもうちょっと?かなり?「いい脳みそがあったら!」、絶対裏を掻くことが出来そう?なわけありません。
勉強!勉強!勉強!特大の漢字で勉強!!!しなくっちゃ。
いやーそんな大層な努力を払わなければならないんだったら、犯罪はヤッパリ割に合いません!よ。
私は読んだだけでもうお手上げです。

ギリシャ・ローマ神話

題名INDEX : カ行 631 Comments »

グスターフ・シュヴァープ著

さて、私の不幸は「日本書紀」や「古事記」を読む前に「ギリシャ神話」に親しんだことにあるかもしれない、と思う時があります。
また反対に私の幸せな読書生活は、ごく小さい時に「ギリシャ神話」にめぐり会う幸運に因ってもたらされたのだと思う時があります。
勿論幼い時に出逢ったギリシャ神話は、子供向けのもので岩波の「少年少女文学全集」に載っていたものです。
その後高校生の時に白水社から出たこの本にめぐり会って、それからずーっと一緒というわけです。
あの当時お小遣いで買うには結構「高かったなぁ!」という意識が抜けないので大切にしているだけかもしれませんが?
多分この本に親しんだせいで、西洋の小説や西洋絵画が理解しやすかったのは確かです。
簡単なところでは先日公開された映画「ナルニア国物語」でルーシーが始めて会ったタムナスに「あなたフォーンね?」という場面があったでしょ?
ギリシャ神話を読んでいればあれは「パン」ローマ神話では「ファウヌス」英語では「フォーン」のことね?とすぐ思えたでしょう。
「パン」というのは小家畜の保護者で牧人・猟人の保護者でもじゃもじゃの頭髪に山羊の角と足を持つ髭男として現れますから。
シェークスピアとか古典を読む場合はもとより現代小説においてもこの本から得た知識は大いに役立っています。
もっとも映画「トロイ」などを見るとちょっと苛つくかもしれませんが。
それでも物語の足りないところを自分なりに補い付け加えそれなりの楽しみを引き出すことができますからね。
決して無駄にはなりません。
私の読んだこの本にはトロイの原作になった「イーリアス」と「オデッセイア」も載っていたのです。
外国の子どもたちには当然この神話の知識がありますから、例えば「赤毛のアン」とか、そう「ジェーン・エア」なんか読んでも神話からの挿話が随所に出てきますものね。
私の憧れのロチェスターはジェーンに「「ヴァルカン」のような男だ!」と自分の事を言うではありませんか。
で、ほらここでもまたギリシャ神話が役に立つというわけです。
英語の「ヴァルカン」はギリシャ神話の「ヘパイストス」ローマ神話の「ヴゥルカヌス」醜い火の神、技術と職人の神だ!って。
名前がややこしいという人も居るかもしれませんが、日本の神様方もその点では負けていませんよ。
それに神話の始まりはヤッパリどこの国も似たようなものです。
私はちゃんと勉強したわけではありませんから、ただただ楽しむだけの読者ですから、いい加減な事を言っているのかもしれませんが。
でも子どもさんが童話に親しみ始めたら、是非「日本書紀」と「古事記」と「ギリシャ神話」の子ども版を挟み込むといいと思いますね。
あー、欲を言えば「聖書」もね。
そうすれば長じるに従って読書の世界が広がり、楽しみ方の幅も広がるというものです。
私も自分の子供達にそうした(かった?)はずなのですが・・・?
今、この本は絶版?かも知れませんし、子どもには読みにくいでしょうね。
だから、阿刀田さんの本でギリシャ神話の世界に入るのがいいかもしれません。
全く、阿刀田さんって、読書を楽しむつぼをよく知っていて、痒いところに手の届くタイプかしら?って思うのですけれど、やるじゃないですかねぇ?
古事記から聖書までちゃんと網羅していらっしゃいますよ!
これって、結局、阿刀田賛歌?
Read the rest of this entry »

九月に

題名INDEX : カ行 112 Comments »

ロザムンド・ピルチャー著

この物語は一口に言うならばスコットランドのストラスクロイという村の二つの家族を中心とした長編群像劇だろうか。
様々な年代の男女が織り成す、ある年の5月から9月の間の物語である。
クロイ館のバルメリーノ家の夫婦、夫の妹、娘とそのボーイフレンド、息子、の一家と・バルネード荘のエアド家の夫婦、その母(姑)、娘とそのボーイフレンド、息子、忠実なナニー(乳母)の家族を中心に、平和な穏やかな生活の中でそれぞれごく善良で普通の人々が屈託を抱えて生きている様がつづられる。
私たちが人生の途上で直面する問題と変わらない問題が短いスコットランドの夏に表面化し、それを家族の愛情と信頼と努力で克服していくといってしまったら余りに簡単だろうか?
スコットランドの現状、金銭問題、夫婦の愛情問題、子どもの教育問題、放蕩娘の帰宅・・・と人生における岐路が交差する。
しかしそれは特別なものやセンセーショナルなものではなく、私にとっても身近な問題だから、自分にひきつけて感情を揺さぶられながら読むことになる。
ここに登場する女性たちの生き様は丁度私の人生の色々な時代を反映しているようで、私にとって見知らぬものでも他人事でもない。
その等身大の女性のそれぞれにいじらしい生き方がこの作品を輝かせている。
アレクサは私が少女期を脱した頃「そうありたい!」と思った姿を彷彿させるし、ルシラは私がまだ若かった頃「そうしたい!」と思った生き方を体現しているし、イザベラの現状は私が通ってきた道そのものだし、ヴァージニアは女として私が「持っていたら!」と思ったものをすべて持ちながらそれだけでは幸せにはなれないという事を教えてくれる。
そして、ヴァイオレットはこの先私が「なりたい!」と目標にしたい姿を見せてくれる。
スコットランドの気まぐれな陽光が、今は暗くて荒れていて何とか凌ごうと思っている時に、いきなり頭上にきらめくように、人生にも何時どんな時にきらめきが訪れるかと期待させてくれる。
そう、例えばロティが体現するような悪意が私たちの身について離れない時があっても、家族が揃えば、家族が愛情を持ち合ってさえいれば、何らかの光が現れるのだと言う事を素直に信じさせてくれる。
確かにこの物語は甘い!
でも、こんな明るい見通しのある世界を信じてみたい。
ピルチャーさんの作品には南国の生活が描写されることが多く、この作品でもパンドラのマヨルカ島での生活が描写されている。
その南国の太陽の明るさが物語の底にたゆたって、バックグラウンドミュージックのように暖かさを奏でているような気がする。
Read the rest of this entry »

コロンバ

題名INDEX : カ行 46 Comments »

メリメ著

映画「山猫」を見たので、イタリア半島近くの島のお話を思い出しました。
私にとっては古い友達のようなコロンバ嬢をご紹介申し上げます。
メリメの作品は確か少年少女文学全集に載っていた「マテオ・ファールコーネ」が最初の出会いで、この短いけれど強烈な作品のイメージで作者の名前を覚えて、次に読んだのが「コロンバ」でした。
「コロンバ」で虜になり「カルメン」でため息をついたというところでしたが、彼の作品にはその後出逢っていません。
「カルメン」の方がよく知られているでしょうね。
ビゼーの歌劇「カルメン」の原作です。
でも「ハバネラ」を聞くと私の背中に忍び寄ってくるのはコロンバです。
復讐を成し遂げさせた後に、輝きを放つコロンバの瞳です。
あの曲には何か女の凱歌のような響きがあります。
「コロンバ」は高校生の私が「倫理」の時間に「『コロンバ』と『モンテ・クリスト伯』の中に見る復讐という名のカタルシス」を題材に書いた作文で先生に「褒められた!」忘れられない作品です。
そう、復讐譚です。
コルシカ島を舞台の。
イタリアの長靴の先っぽに、今にも長靴に蹴飛ばされそうにあるのがシシリア島で、ここはイタリアで「山猫」の舞台ですが、長靴に降りかかる雨粒のように長靴の横にあるのがコルシカ島で、ここはフランスで「コロンバ」の舞台です。
マフィアの源はこのイタリア・シシリア島の方だそうですが、「コロンバ」を読んでその復讐心の強さ、熱情、激しい気性、家族郎党の絆の強さなどを読み取ると、このコルシカもマフィアのふるさとみたいじゃないかと思ってしまいます。
そして、私には現代日本を生きる人間の感情・血はコルシカ人のそれと比べると、ただ濁った水のようなものじゃないかしらと思えてしまいます。
コロンバが見せる激しい直情の一本線なこと!
この本を読むと、いやおうなく、私たちの逡巡、思考、見栄、格好、配慮・・・とにかく周りを気にしたり、損得を考えたり、後々の事を思い迷ったり、中途半端な道徳心や、中途半端な教養、様々な付属物や不純物を意識させられます。
「感情というものはこういうものなのだ!」って、人間の原点を突きつけられる思いがあります。
「目には目を・死体には死体を」
今の私たちにはそんなことはあってはならない、許されざることだというのは百も承知で・・・「でもそれは何故?」と思わせるのは、ひとえにコロンバの表現するコルシカ人の「血」の激しさの魅力・魔力でしょうか。
最後にコロンバを見送る農婦が言います。
「あんなにきれいなお嬢さんがどうだろう、眼で魔法をかけるんだよ。」
コロンバの眼がかける魔法はコルシカの育んだ地方色であり、民族性であり、血なのです。
子どもの時に国を離れフランス的な教養を見につけた兄オルソが忘れた(失いかけた)「民族の血」をコロンバの眼は兄から引き出します。
兄が愛したイギリス女性が、兄を感化しようとした愛と洗練された文化性を押し流す勢いでコロンバの直感と直情が走ります。
女の原点がここには有るような感じです。
可愛らしさ、愛情深さ、激しい憎しみ、手段を選ばない策謀、愛するものに仕えるいじらしさ、おまけに美貌までも!
コロンバは、「際立った美貌、二十歳、背が高く、色白で、濃い青い眼、薔薇色の唇、栗色の長い髪を編んで頭に巻きつけ、メッツァーロという黒いヴェールを被り、誇りと不安と悲しみをまとって」私の前に現れた時から私をも虜にした女です。
Read the rest of this entry »

城砦

題名INDEX : サ行 662 Comments »

クローニン著

この作家の作品はこれ一冊しか読んでいないのに、お薦めと言うのは気が惹ける。
しかしこの作品は是非読んでもらいたいと思う一冊なのだ。
私が初めて読んだのは二十歳過ぎた頃で、その時に買った新潮文庫が黄色く手ずれして今も私の手元にある。
どこへ行こうと、様々な本を整理しなければならなかった時にも手放す気になれなかった。
まるで私の良心の番人のようで・・・
気持ちが停滞している時、鼓舞したい時、この本を手に取ってみようと思う。
初めて読んだ時に、この作品の主人公が分け入り目指した茨の道の凄さと、それに挑んでいく粘りと頑固さに、心から敬服してしまったからだと思う。
特に最近のニュースで見る世相、特に若者のあり方、などを読んだりTVで見たりするとこの作品をふっと思い出してしまう。
貧しさの質?も変わり、働くと言うことの概念も変わり、生きることの意味もまるで変わってしまったような今、果たしてこの物語の中にあるような過酷な人生を「選択する」意義があるのかとも一方で思う。
しかしまた「いやいや、ヤッパリ人生の本質は不変だろう。」とも「若者の本質は変わらないだろう。」とも思う。
ただ、今は情報に流されることが多すぎて、自分で自分の人生の意義を見つけ難くなっているだけだろうとも思う。
だからこそ今この小説を読む意味があるようにも思えるのだ。
失われたものを求めて、見出せないものを望んで。
熱く生きるということ。
過酷なものをあえて選択するということ。
間違った道に行ってしまっても戻る方法はあるのだということ。
勇気を出せば出しただけの価値を見出せるということ。
きちんと自分を持っていれば、それを認める者もいるということ。
主人公の医師アンドルウ・マンスンの希望と絶望の中での挑戦と成長から感じるものが絶対あると思う。
挫折して、挫折して、なお諦めず進むその姿。
理想が潰えて、名声や富に屈した時の姿。
そしてまたそこから立ち直った時の満身創痍の姿。
運命と意志の力について、考えさせられ、感じさせられることと思う。
この作品を読むたび私は自分を愧じ、うなだれてしまう。
しかしまた、「人間て凄いんだ!」とも思い、「せめて何か一つ努力しよう!」とも思う。
だらけた時に自分をリセットするスイッチのような私の一冊。

ちなみに中村能三さんは翻訳者で、また補足として紹介している「人生の途上にて」竹内道之助訳はクローニンの自叙伝的小説ということなので興味がある向きにはと思って掲載しました。
Read the rest of this entry »

メリーゴーラウンド

題名INDEX : マ行 613 Comments »

ロザムンド・ピルチャー

メリーゴーラウンドはこの世界の象徴である。
子どもらしい、愛らしい、懐かしい、人がメリーゴーラウンドに抱いているすべてのものを思い出して欲しい。
そしてそれを美しい色彩の混沌というか、シャッフルというかしたものが、ここでのピルチャーさんの世界である。
つまり似つかわしいものの、理解しあえる人の、「輪」とでも考えたらいいのではないかなぁ。
血縁を取り除けてここには同じ魂を持った人々が自然に結びついて生まれた優しい世界が誕生している。
主人公のプルーは両親の愛も理解も受けなかったが、芸術家魂を持った伯母とその連れ合いにはとても愛されて幸せに育った。
サブ主人公ともいえるシャーロットは経済的には豊かだけれど愛の無い家庭で非常に孤独に育っている。
この二人がコンウォールの芸術家魂を揺さぶる美しい景色の中で出会って、同類という家族が生まれてくるという物語だと私は思って読んだ。
そしてこの物語のもう1つ女性読者を引き込まずにいないキーワードは芸術である。
優れた絵心を持っている人々が引き合って愛が生まれて、理解が出来て、ぬくもりが生まれていく。
なんと格好よくも魅惑的であることか。
芸術の才能の無い読者としては羨ましくも憧れる。
風光明媚な観光地での恋が語られるのだから、これが憧れずにいられようか?
全く、「アーティスト」「画家」って言うだけで殺し文句だ。
繊細で、気まぐれで、美の探究者・・・多分、絶対、永遠には独り占めできないものよ・・・ため息。

コーンウォールの嵐

題名INDEX : カ行 12 Comments »

ロザムンド・ピルチャー著

[前回]ロザムンド・ピルチャーという小説家

人と人との付き合いの中でも血縁という抜き差しならないものほど厄介なものはない?
上手くいっている間柄ならこれほど力強いものは無いが、一旦歯車が軋み始めると・・・。
ピルチャーさんの作品には割合母と娘がいい関係では無いものが多い、そしてまたほとんどが離婚家庭の娘が主人公になっているような気がする。
濃密に上手くいっている母娘でさえ、傍から見るとあまり感じがよくない場合もあるから、いっそ・・・?っていうことかしら?
母娘の関係は一般的に父息子の関係ほど難しくは無いかもしれないが、彼女の作品にはあまり父息子の物語は無いようなので、考えないこととして、この作品の主人公レベッカも母リサとは希薄な間柄の母娘であった。
リサが奔放に自由に生きたのに対して、レベッカは傷つかないように自分をくるんで生きてきたようなところがある。
長い間孤独だったせいか、彼女は母の死に際して初めて知った祖父の家へと出発する。
ここから物語りは始まるのだけれど・・・一つ不思議なのは始めて知ったのは祖父がいるということだけでは無く、父の名も初めて知ったのに、ピルチャーさんの小説は1代世代をおいた関係を描くことが多い傾向があって、この物語でもレベッカの向かったのは父の居るアメリカでは無くて、コンウォールの祖父の所へだったのだ。
そして祖父の家での従兄たち、伯母、その姪たちとの関係の中で彼女は変化して行く。
多分にご都合主義的なところがあって、レベッカは本能的に惹かれる者に潜在する危険が分かるらしい?
だから物語は破綻を秘めているのに、彼女はのっぴきならない苦悩に飛び込む前にちゃんと人生行路の選択が無事に出来てしまう。
このあたりに人生を描く物語としての喰いたり無さがあるのだけれど、また反対にそこでこそこの物語が持つ気分のよいワールドに浸れるというわけである。
ぬるいお風呂が好きな人には絶好の楽しい読み物に仕上がっていると私が思い、そこが私のこの本を愛好する所以でもある。
ジョスのような男に抱きとめられたら、女なら文句あるまい!

Design by j david macor.com.Original WP Theme & Icons by N.Design Studio
Entries RSS Comments RSS ログイン