ロザムンド・ピルチャーさんの後に取り上げておきながら、作品紹介を一つも上げていないのは余りといえば余りに、片手落ち!
と、自分で自分を責めた結果・・・ヤッパリまずはデビュー作でしょうね!
1990年に出版されたこの作品でコーンウェルはデビューしました。目覚しいデビューだったようです。
さて、この作品はアメリカのバージニア州リッチモンドが舞台で、主人公の検屍官ケイ・スカーペッタもこの後続く作品群の主人公としてこの作品で、まぁデビューです。
私はバージニア州のリッチモンドには行ったことはありませんし、行く予定も無かったのですが、この作品を読んで永遠に行く気は起きないだろうと断言できます。
アメリカの殆どあらゆる地を舞台にした恐ろしい映画なら結構見ていますが・・・ロサンジェルスやサンフランシスコやシカゴやマイアミの恐ろしいことといったら!
リッチモンドには「!」が幾つあっても足りないくらいです。
この本を読み終わった後ほど、このシリーズを読み続ける度にリッチモンドという都市への恐怖感が募りました。
ケイが転勤してもこの恐怖感薄れはしませんよ。
作家にはこの地を選ぶ特別なわけがあったのでしょうか?
架空の都市名をつけなかったのはリアリティのためですか?
ワシントンはこの直ぐ近くですが、ワシントンなら行ってもいいかな?・・・って、そんな・・・甘い!
「NYに一週間も滞在して無事に帰ってこられたなんて、人口比で考えると奇跡だったんだ!」と今は思っています。
アメリカの都市ではいや田舎でも事件に巻き込まれないで生き抜くなんて殆ど奇跡に近いんだって言う気分に陥りました。
全く猟奇的な事件「屍」に満ち満ちているようですね。
「検死官」じゃなくて「検屍官」であるところからもう怖いです。
でもこの本が読ませるのはこんな世界にも一生懸命自分の責務を果たそうと努力する人々がいて、正義を信じて働き続けているからなんです。
しかも彼らはそれぞれに自分の問題も抱えているのですから、いやでも共感できてしまうじゃありませんか!
現代を、それぞれに背負っている物は違っても、あがきながら生きていて、しかもまっとうに生きようとしている人々が海の向こうのこんなにも辛い世界にもちゃんといるんですねぇ・・・なんて。
それだけ登場人物の描かれ方に魅力があるんです。
「屍」をさらす人々さえもそうなんです。彼らにも人生があったんです。
主人公のケイも、私のお気に入りのマリーノ刑事もウィンゴーやバンダーや共に働く人々それぞれがしっかり書き込まれていて生きている。
しかし彼らは本当に悲しい。
まだこの話では幼い姪のルーシーにしたって幸せな今後が約束されているわけでもない不透明さ、悲しさ。
本の中で私は彼らと生きることの悲しさを分け合ってしまう。
つい「彼らの明日は?」と思って更に一冊読み進んでしまう・・・といった具合なんです。
でも警告しておきます。
私は本のカバーで作者のパトリシア・コーンウェルの写真を見てしまったんです。そしたらすっかりその顔にケイが填まってしまったんです。
だって作者の顔写真、ケイについて書かれた表現の雰囲気なんですもの。
で、困ったことにケイが動くたびにその姿にパトリシアの顔が乗っているといった「不始末?」です。
自分のケイをイメージしたかったら、くれぐれも作者の顔を見ちゃわないようにね。
オット、肝心な事を。
科学捜査ってこんなに進んでいるって事をこんなに簡単に書いちゃっていいんでしょうか?
でも捜査が進んでいく様子は固唾を飲みますし、面白くて夢中になって読み進んじゃいます。
「凄いや!こんなことが割れちゃうんだ!」の連続です。
多分勿論現実はモット進んでいるんでしょう。
逃げるものと追うもののいたちごっこは永遠のテーマですが、この本を読んだら、私にもうちょっと?かなり?「いい脳みそがあったら!」、絶対裏を掻くことが出来そう?なわけありません。
勉強!勉強!勉強!特大の漢字で勉強!!!しなくっちゃ。
いやーそんな大層な努力を払わなければならないんだったら、犯罪はヤッパリ割に合いません!よ。
私は読んだだけでもうお手上げです。