マイヤー・フェルスター著

今月末にドイツ・ロマンチック街道の旅をすることになった。
フランクフルトから入って、ラインの旅とロマンチック街道をゆっくり辿り、
ミュンヘンから北上してハイデルベルクで締めの2泊をして帰るという旅だ。
ハイデルベルクと言う文字を見た瞬間に思い出したのが「アルト・ハイデルベルク」
ベルリンを通るなら絶対ケストナーの本を読み返すところだけれど
(だって、私はドイツ!ときたらケストナー!だもの)、ハイデルベルクと言ったらこれ!
そう思って直ぐに観光案内より先に読み始めたのだけれど、
借り出した図書館の本は実に古びていて懐かしい小さな文字の1990年の岩波文庫。
ひょっとして、もう絶版?
そういえば上演されることも無いようだ。
私たちの世代はこの本の題名だけは耳にしたことがあるだろうけれど、
今の若い人たちはもう読むことも無いのかもしれないなぁ。
本当に何十年ぶりかの再会で、物語の静かな悲哀の中を漂いながらつらつらと思ってしまった。
この物語は悲恋物語として頭に残っていたけれど、実はそういうものでも無かったのだと。
ドラマらしいドラマ、物語らしい物語、ロマンスらしいロマンスは
今この時代から見るとこの戯曲の中には無いのだと。
彼は「ハイデルベルクへの憧れは君(ケイティ)への憧れだった!」と信じているのかもしれないが、
彼の真の憧れはハイデルベルグの学生生活が象徴する自由への憧れだったのだと思う。
カール・ハインリッヒの失ったものはケイティではなくて、青春そのものでもなくて、
ハイデルベルグが象徴する自由だったのだと。
私は青春の恋だとずうっと思っていたけれど、彼の先生自身もずうっと恋がれ、カール・ハインリッヒに植えつけたものは青春時代に一番輝く自由なんだと。
失ったものが青春の恋ならば、時が癒してくれる。
しかし彼の失った自由はどんな時も癒せはしない。
だから、カール・ハインリッヒはあんなにも惨めであんなにも悲しい像として心に残ったのだ。
現在はある意味自由に満ち満ちているから、この物語はもう読まれることは無いのかもしれない。
それでもこの本の中に漂う悲哀は十分に私の旅心を刺激してくれた。