横山秀夫著

この作家は読むたびに腹の底から唸らせてくれる。
読むのが厭になるほどねちっこいのに、夢中で読まされるのはもう上手いとか凄いとか言葉の表現の外だっていう気がして、感想なんてお手上げ!
勿論、業界(この場合地方紙北関東新聞)や扱っている御巣鷹山の日航墜落事件や山・谷川の衝立岩・・・の知識・情報の調査の濃密なことは言うまでも無い。この濃厚さといったら彼はその道の権威なんだろうなと思わされるくらい。
しかし、私が読まされるのはそのことでは、そのことだけではない。
勿論その精密さの上に構築される人間関係が状況以上の?濃密さだから!だからこそ読まされてしまうのだ。
主人公の悠木(新聞記者)の40歳の時の山仲間との衝立岩挑戦の日(結局墜落大事件で果たせなかった)から17年後その友人の死後、彼の息子と衝立に登るまでの大事故後の衝撃の数日間を軸に修復できなかった彼の息子との関係・その友人の言葉の謎などを絡めて濃密なドラマが展開される。
正直その一つ一つが1冊の本になりうる課題だと思う、
「友人が何故あの場で倒れたのか・・・?」という一つを追い求めるだけでも一つのサスペンスになりえただろうし、彼の生い立ちを含め母との・妻との・息子との又娘とのそれぞれの関係・葛藤を描いても1冊の小説になりえたし、新聞記者としての事件へのかかわりを徹底的に描けば(後論この作品はそうだが)これは一つのドキュメンタリー的作品になるだろう。
それを、その3ツの主題を文庫400ページ余りに凝縮して書き込んでしまったのだから・・・感嘆と賞賛とため息で夢中で読みふける以外読者の出来ることは無いようだ。
しかしやはり一番読ませたのは新聞記者としての彼のこの大事件への姿勢だ。
私は新聞を作る人、学校の先生、楽しい読み物を書く人、お医者さん・・・彼らをずーっと子供の時から聖職者としてみていたところがある。今では微妙と言わざるを得ないが。
新聞記者というのは事実を正しく伝えてくれる人と思っていて、新聞で読むことは正しいと信じていた時期がある。
それが音を立てて崩れたのは「ある新聞を父がずうっと読み続けているのはその新聞が好きだから」と思っていたのが違うという事を知った日だった。父がその新聞を読んでいたのは「その新聞が戦争責任をきちんと認めないまま、戦争中にどんな記事を書いたかを反省しないまま、今も新聞を作り続けている事を見張るつもり。」という事を知った時だった。(ちなみに父は記事によっては抗議の電話をかけ続けている)色々な地方に住んで色々な記事を読んで一つの事実を色々な立場で書くのが記者なんだと知ったし。その立場が問題なんだということを肝に銘じて記事を読まなければならないということも知った!
地方で暮した時私はその地方の新聞を採っていた。その地方を知るにはその地方の新聞が一番!と思っていたからだ。
その意味ではこの作品は私にぴたっとはまった!といってもいいだろう。妙に納得がいったという感じだ。ここにひしめく新聞記者たちの様々な関係意識軋轢あらゆることが記事に反映する。新聞も人間無しではありえないということを示してくれた。
良い記者がどんな者かは分からない。読者の心を持てあそぶ記者、心を揺さぶろうとしすぎる記者、自分の立場を優先させる記者、思い込みで誘導する記者・・・様々な人間がひしめく新聞社、その新聞社の立場が主導権争いで左右されるなんて思ってもみない余りにも低級な悲しさだったが、ただ横山さんの小説は必ず最後に人間を肯定してくれる(今まで読んだ限り)。
燐太郎君は存在そのものが救い以外の何者でもないし、悠木本人も途中で腹が座って記者というものの有り様を素敵にして見せてくれたし、等々力という上司の姿でさえ何かいいものを感じさせてくれた。育って行く記者たち、佐山、神沢、望月彩子。神経を逆なでしあい否定しあいながらも寄り添うなにかもある同僚たち。
この神経をすり減らされるような話の合間に不思議なくらい好きだなぁと思わされるちょっとしたフレーズというか遣り取りがあってそのたびに救われた。
それにしてもこんなに見事に現代を読ませる作家を私は始めて知ったような気がする。