先にロザムンド・ピルチャーさんを紹介しましたが、ある意味ではこの作家はピルチャーさんとは対極に位置する作家と言えるでしょう。
フィールドが違うという事ですが、作家の持つ景色、世界、全く違うものが味わえます。
この二人の作品をピンポンのように読むっていうのはちょっと面白い感覚です。
人生のウェットな部分とハードな部分を読書によって振り子のように擬似体験できるとでも言いましょうか。
善なる世界と悪なる世界!
私の世代、女の子にとっての読書の王道は(外国の女性作家だけを取り上げれば)、フランシス・ホジソン・バーネットの「小公女」「小公子」「秘密の花園」あたりから始まって、アリス・ジーン・ウェブスターの「足長おじさん」、ルイザ・メイ・オルコットの「若草物語」、ルーシー・モード・モンゴメリーの「赤毛のアン」を経て、シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」、ジェーン・オースティンの「自負と偏見」あたりへ至って、大人に成る?という感じだったでしょうか。
そしてこの経過を辿った人はロザムンド・ピルチャーさんに必然的に?辿り着くでしょう。
しかしパトリシア・コーンウェルさんには辿り着かないでしょうね。
かなり寄り道をしないとね。
でも簡単に到達する人がいます。
推理小説が大好きなら!
ハードボイルドが大好きなら!
未だ、コーンウェルさんの作品は十数冊しか読んでいませんから、簡単には比較できませんが・・・というより絶対比較できませんが、それでもアガサ・クリスティ以来の凄い女性推理小説家だと思います。
今後もどんな作品を送り出してくるか楽しみです。
が、ここに来て、私にとっての問題は彼女の作品を今後も読み続けることが出来るかというところにあります。
苦しい世界なのです。
アガサ・クリスティの作品は多分翻訳されたほぼすべての作品を読んでいますが、楽しみ以外のものではありませんでした。
どの作品も殺人事件があっても読み物として私は一作一作を楽しめました。
けれど、ケイ・スカーペッタ(検屍官シリーズの主人公)が活躍すればするほど私は悲しくつらくなってくるのです。
どの作品も読ませます。
迫力があって、リアリティに満ちていて、一気に読ませる魅力を持っています。
しかし、彼女が生きて活躍する世界は余りにむごいです。
主人公を始めそれぞれに一癖ある脇役たちまでもが本当に生きているのが辛そうです。
私のお気に入りのマリーノ刑事なんか可哀相で哀れで哀れで、「何とかしてやってくれ!」と叫びたくなります。
彼女の作品を読んでいるとアメリカの「今」がここに凝縮していると思います。
そしてそのアメリカにどんどん近づいて行く日本が怖いです。
アメリカの威力の下、全世界がアメリカに似ていくのだと思うともっと怖いです。
アメリカに僅かでも光が射せば、いつかは世界中にもそれが波及していくでしょうか?
それまで人類は果たして生き延びられるか?
不安で胸をわきたてながらつい読んでしまう自分が少々?いや多分に不安です。